昭和五十七年四月二十四日 朝の御理解
御理解第六十九節
信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。
信心の喜ばしさ、楽しさというものが頂けてくるので、信心はみやすいものになると、ま、教えておられると思うんです。信心が有り難いものでも、楽しいものでもないとするなら、やっぱり難しいね。朝早うから眠たいのにお参りせんならんね。相当のお金もかかる、時間もかかる。なかなか普通じゃでけんということにもなります。
けれども信心が有り難いもの、楽しいもの、信心が今日の御理解を頂きますとね、三年五年の信心ではまだ迷いやすい、十年と信心が続いたら、喜んで我心をまつれとこう仰せられる。我心がまつれれるような信心をみやすいと云うものあってただ、おかげ頂かんならんから参りよると。
あるお婆さんが熱心に椛目時代に参って来よった。したら息子さんがその椛目にばっかり参ってから、ち、文句を言われた。そしたらそのお婆さんが云われる事が、私が椛目に参りよっとは好きでばし、参りよっとち思いよるの、あんたどんが為、参りよるとばの。ち、云いよんなさったち、云うのを隣の誤診じゃさんが聞いて私にそれを聞かせて下さった事があるんですけれども、果たしてあんたはどうのというような感じがしますね。
成る程、表現は成る程おかしいですよね。私が好きでばし参りよっと思いよる。あんたどんがおかげ頂かなんならん、商売が繁盛する事まいりよるとばの。好きで参りよっとじゃないかばい。ち、云うちからお婆さんが云いよなさったとこう云うのですけれども、そういう人が大体多いんじゃないでしょうか。それだったら信心は難しいですよ、やはり。
好きで参りよっとじゃない。ち、おかげ頂かなんならんから参りよるとね。これは本当にそりゃ笑い話のようですけれども、お互いの信心もね、好きで参りよるとじゃない。おかげ頂かなんならんから、眠りたいけれども苦しいけれども、少しはお金もかかるけれども参りよると、というような私はあの信心からね、とにかく有り難うして有り難うしてこたえん。楽ししゅうして楽しゅうしてこたえん。信心が身についていくと事が、成る程、こういう信心を頂いていくならば、十年後には我ながら、我心がまつれれるようになるだろう。
どうでしょう、皆さんが本気で自分自身の信心をね、一つ検討してみなければいけませんよ。でないと何十年たったちゃ我ながら我心がまつれれるようになれません。
それでは、やはり信心は難しいということになりますね。信心はみやすいものじゃとね。云うならば本当に信心はみやすいものというが、本気で稽古しようと思えば、みやすいのであります。
例えば五年六年と大工なら大工の弟子にまいりましたらね、もう五、六年も素りゃ、どうやら家が自分一人で立てられるようになるね。ま、その事を研究する。いよいよ立派なものをということになりゃ、まあ十年も二十年も云うなら経験、体験云うならば技術が段々進んでいくのですから。
此処の御神殿のおかげを頂かれた竹野さんという、人間国宝にまでなられたかたですかね、お爺さんですが、もう八十近くになって、もう夕食を頂いたら仕事場へ、の部屋に入ってあの彫刻をなさいますね。神様のあの神社仏閣を立てられるのですから、も、それが楽しゅうしてこたえんというて、もう亡くなられるちょっと前まで、それを続けられたということですね。仕事がもう楽しゅうしてうれしゅうしてこたえん。もう夕食がすんだ、はよ風呂にどん入って寝ろというもんじゃない。
勿論、なら、昼遊んでござるからちいうと、そうじゃない。昼は昼でやっぱり一生懸命やって、そして夕食を頂いて、その後も又しばらく仕事部屋に行って、こつこつとその仕事をなさる。成る程人間国宝にでも選ばれた方だ。まあ沢山な神社仏閣を、まあ有名な神社仏閣を建てられたというようにね、本当にこの年になるまでね、ノミを握ったり、カンナを握ったりせんならんとは、本当にじゅつない事ではある。ただ金がなることだけのためであったならば、そうだろうとこう思う。
も、早よ、子供立ちに譲ってしまって、こっちは楽隠居がしたいと、これは私も思いますよ。身体がこんなに強い事はないですけれども、ま、手足の続く限りは御用さして頂こうと、それが有り難うしてこたえんからですよ。
段々段々、しるしなってくるならですね、とにかく早よ、譲って楽隠居したいね、云うならば、信心が段々身についてくる。これが信心のお徳というものだろうか、云うものを感ずる。
だから楽しゅうしてこたえん、有り難うしてこたえん。信心はみやすいものじゃけれども、氏子からむつかしゅうする、ここんところの一つ転機というかね、切り替えです、そうすると本気で稽古しようという気になるんです。
はあ、難しいお願いばかりね、それも筋の通らんお願いばかりをするから、おかげになったりならなかったりで、それでもやっぱ、がむしゃらにお願いをして行くことが信心のように思うておったんではね、おかげにならんです。十年と信心が経ったら我ながら我心をまつれれるようになるね。だから信心というのが、ただね、御利益を受けるからの神様であったり、仏様であったり、そういう観念がお互いの心の中にあるわけです。
だから信心とは、いうならば、いよいよ本心の玉を研く事であり、日々の改まりが第一といわれるような、信心のその確信にね、触れての信心でなからなければならん。日々の改まり、本心の玉を研いてくると、今まで思えなかったことがね、有り難いと思えなかったことが有り難く思えるようになり、これは不思議な不思議ないうならば、心の状態というものが、変わってくる、それが楽しいのです。それが有り難いのですね。ただ御利益を受けることのための信心は難しいです。おかげを受ければ有り難いね。
だからおかげを受ければ有り難いでなくて、信心が身についていくことが有り難いという信心にいよいよ切り替えさせてもろうて、合楽合楽とお参りしよって好きで参りよっとじゃなかばいち、云わんならんごたる信心じゃどうでしょうかね。そりゃ、朝でもゆっくり寝たい。参らんならお金もいらんばってん、おかげ頂かなんならんけんでまいりよっとばいという信心からね、もう金のいるくらいなこっちゃない。朝起きするくらいなこっちゃない。身に付いていく信心がやはりこれは、本当にそうですばい。はい。
もう本当にその切り替えをして、本気で信心の稽古をしようという気にならなければ、一生難しいもので終わってしまいますよ、そしてなら、本当のおかげも受けられない。
地団駄踏んで願うようにするから、ま、おかげ頂いたにしてもですね。神様はしょうことなしにおかげ下さってもですね、神様が喜んでですよね、下さるね。十年と信心が続いたらね、喜んで我心をまつれということは、神様が喜んでおかげを下さるようになってくるんですね。そういうおかげをそういうおかげを頂けれる信心を目指さなきゃならない。
成る程信心はみやすいものじゃ、難しいものではないということが分かります。 どうぞ